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明治初期能代の挽木屋1  宮越三右衛門

能代木材の歴史

2022.09.17

建築士会雑誌11月号の原稿「郷土史の視点から秋田杉の歴史と木材産業による景観」を書いた。
4,500字の原稿だが9,500字になってしまった。
大幅に削除した。
漏れた資料を記録保存する。

明治初期の能代の万町の挽木屋の宮越三右衛門。
この頃はまだ機械製材がなかった時代である。

江戸時代の木材の移出は大型弁才船で行われ、引き続き明治中期まで続いた。江戸時代は藩の政策の元で能代が木材の集散地となっていたのだが、明治10年から20年の間に民間で加工し生産地として歩み始めた。明治二十年の能代港の移出高は木材関係55千円、肥料7万円、米4万円だった。26年には木材関係の移出が8倍ほどの447千円と記録され、主な輸出品となっている。この頃はまだ機械製材はなく、鋸だけで挽板、角材その他の製品を作っていた。明治二十年には、挽木屋が十数件、木材商10人、山師が15人いた。木材商は回船業者と共に発展の要だった。能代港の出入り船舶は670 艘(そう)、川船は300艘(そう)だった。木材商と回船業者20件以上あった。この後の木材産業は近代化、機械化が望まれ、そこに登場したのが東洋一と言われた秋木(秋田木材株式会社)の創始者の井坂直幹だった。

絵は「秋田県能代港市街明細絵図」から転載。

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