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秋田城築地塀の変化

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2025.05.23

秋田城は
733年(天平5年)に出羽柵庄内地方から秋田村高清水岡に移転したことにさかのぼり、
その後天平宝字年間に秋田城に改称されたものと考えられている。

21日に仙台でパッシブハウス東北支部の見学会と研修会があった。
講師のコンサルの鎌倉さんが見学した仙台パッシブハウスを仕様も基に、
東北6県の仕様を提案した。
福島県、宮城県、山形県、岩手県は多少の仕様変更で済んだが、
日射極小寒冷の日本海側の青森県と秋田県は別物だった。

その秋田城の築地塀の変化
当初は屋根は瓦、壁は版築の築地塀だったが、
瓦葺は板葺き、壁は木柱に置き変わっている。
両方とも凍結被害を受けての結果なのだろう。
大和朝廷の蝦夷対策の威信をかけた政庁だが、
寒冷な気候に耐えられなかったのだろう。
現在も瓦の北限は県南の由利本荘市 と秋田市の間にある。

復元された築地塀
下部は凍害を受けボロボロになっている。

以下は秋田市のHPから転載
秋田城は奈良時代から平安時代にかけて東北地方の日本海側(出羽国(でわこく))に置かれた大規模な地方官庁で、政治・軍事・文化の中心地でした。蝦夷(えみし)の人々が暮らしていた東北各地に同じように造られた律令国家の地方官庁の遺跡は「城柵官衙遺跡」(じょうさくかんがいせき)と呼ばれており、秋田城はその中で最も北に位置しています。
天平5年(733年)に、秋田村高清水岡(たかしみずのおか)に遷(うつ)された当初は「出羽柵」(いではのき)と呼ばれ、天平宝字(てんぴょうほうじ)4年(760年)ごろに秋田城と呼ばれるようになりました。奈良時代には出羽国の政治を行う「国府」が置かれ、また津軽(青森)・渡嶋(わたりしま)(北海道)のほか、大陸の渤海国(ぼっかいこく)(中国東北部)など対北方交易・交流の拠点としても重要な役割を果たしていたと考えられています。
平安時代に入り、元慶(がんぎょう)2年(878年)の蝦夷の人々による元慶の乱を経て、10世紀の中頃まで機能しました。10世紀後半には古代城柵としての機能は失いますが、歴史書には「秋田城」の名称や官職名としての「出羽城介」(でわじょうのすけ)、「秋田城介」(あきたじょうのすけ)が記されています。また、鎌倉時代以降、「秋田城介」は北方を鎮護(ちんご)する役職名となり、武門の名誉となっていきました。

資料館のジオラマ。
舌状大地で、
北と西は日本海、南は雄物川、東は崖地・急斜面である。
防備が硬いが、シバシバ、蝦夷に攻撃されている、

竪穴住居の復元。
煙突付きのカマドがある。
調理と暖房の兼用である。
囲炉裏と違い煙くないので火力が強い暖かい暖房ができる。

 

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